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シェーンベルク 「組曲」Op.29&「浄められた夜」Op.4 ブーレーズ/Ens.アンテルコンタンポラン

「フィガロの結婚」第3幕フィナーレの手前のレチタティーヴォ・セッコで、伯爵がいきなり日本語で「助かりました」というところ、何度聴いてもびっくりする(本当はtasca rimastaと言ってる)。




現在少しずつ書き進めている「ストラヴィンスキー自作自演集」のシリーズ(その12)の回で「七重奏曲」(1952年)を取り上げた際に、この作品がシェーンベルクの「七重奏の為の組曲」Op.29と深い関係があると書きました。しかしながら、それはロバート・クラフトの言葉を引いただけであって、私自身はその元ネタというべきシェーンベルクのOp.29について実は良く判っていなかった事を告白せねばなりません。正確に言うと、若い頃にLPで聴くには聴いたが全く面白さが判らず、それ以来多分30年以上聴く機会がありませんでした。たとえ駄文を書き散らしたブログであっても、自分の書いたことには責任を持ちたいとの思いから、CDを取り寄せてちょっと真面目に聴いてみた次第です。

 「組曲」Op.29
  P.ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン*
 弦楽六重奏曲「浄められた夜」Op.4
  P.ブーレーズ監修アンサンブル・アンテルコンタンポラン**

   *Michel Arrignon, Alain Damiens :cl
   Guy Arnaud :bs-cl
   Marryvonne Le Dizés-Richard :vn
   Jean Sulem :va
   Pierre Strauch :vc
   Cristian Petrescu :pf

   **Charles-André Linale, Marryvonne Le Dizés-Richard :vn
   Jean Sulem, Garth Knox :va
   Philippe Muller, Pierre Strauch :vc

   Op.29:1982.6.14/Op.4:1983.11.6録音
   CD:CBS/SONY32DC543

個人的な話で恐縮ですが、私が初めてシェーンベルクの音楽に触れたのは中学生の頃だったか、高校生になっていたのか記憶も定かでありませんが、NHK-FMでラサール・カルテットによる弦楽四重奏曲全4曲の連続演奏会を放送したことがあり、カセット(古~w)に録って繰り返し繰り返し聴いたのが最初でした。もうショックでしたね。こんな音楽が世の中にあるのかと思いました。4つの楽器が鋼鉄の針金のように絡み合い延々と40分以上も続く第1番、調性があるような無いような、不安な夢の中でソプラノがシュテファン・ゲオルゲの詩を歌う第2番、十二音技法という言葉くらいは知っていたものの、それまで全く知らなかったシステムに拠る流麗な第3番と確信に満ちた第4番。この時以来、私の音楽との接し方はそれまでとは全く違ったものになってしまったと思います。今となっては、というより、今も尚、この4つの弦楽四重奏曲がなぜそれほどまで私を夢中にさせたのか、上手く説明できませんが、私が無意識に待ち望み、心の中にそれが嵌め込まれるべき鋳型を密かに彫っていたところにぴったりと嵌り込んだとしか云い様がありません。それから数年の間に当時LPで入手可能な目ぼしい作品はたいてい聴いたと思いますが、結局はこの弦楽四重奏曲、「ピエロ・リュネール」、「期待」、「モーゼとアロン」、ポリーニの弾いたピアノ曲集、これぐらいが今も時折聴くことがあるぐらいで、他はもう滅多に聴くことがなくなりました。爛熟と言いたくなるようなロマンティックな「浄められた夜」や「グレの歌」にどれだけ青春の孤独を慰められたか判りませんが、それもある時期、憑きものが落ちたみたいに聴かなくなりました。不思議なものです。

その中で、当時何がどう面白いのかさっぱり分からなかった一連の作品群がありました。いずれも無調から一歩進んで十二音技法を確立した初期の作、「セレナードOp.24」「ピアノ組曲Op.25」「木管五重奏曲Op.26」そしてこの「組曲Op.29」(Op.27と28は合唱曲で未聴)。Op.25はその後、大学生の頃と、結婚前にちょこっと実家にいた頃、自分でもすこし練習したこともあってむしろ今ではかなり好きな曲の部類ですが、Op.24、26、29はそのまま封印したきりになりました。ブログの効用というのか、ストラヴィンスキーのことを深く考える機会がもしなければこのシェーンベルクのOp.29は一生聴く機会が無かったかも知れません。

さて、こうしてほぼ30年ぶりに聴いたOp.29。なかなか心の中に入ってこない。4楽章通すと結構時間も長くて(約30分)、意識が途中で何度も途切れる。それでも何回か聴いていると、まるでカンディンスキーの絵画のように、あちこちで饒舌なお喋りが聞こえてくる。7つの楽器に「ねぇ君たち一体何を喋ってるの?」と訊きたい気分。毎晩寝る前に聴いて、1週間もすると、不思議なことにこの音楽にはシェーンベルクの精髄のようなものが含まれているような気がしてくる。そしてまるで啓示が降りてきたように、これはmusizierenそのものじゃないか、という思いが起こりました。ドイツ語以外でこういう動詞があるのか知りませんが、無理やり日本語にするなら「楽しみながら楽器を弾く」とか、「楽器を弾いて身も心も弾む思いがする」といったところでしょうか。ポイントは「自ら演奏する」ということと、概念ではなくて極めて身体的な言葉である、ということ。啓示がどのようなものか、回り道しながら書きます。その昔、決して好きではなかった「ピアノ組曲Op.25」をなぜか弾きたくなって、終曲のジーグを練習していた時のこと、少しばかり弾けるようになってくると突如面白くなる音楽でした。その時はそれ以上深く考えることもありませんでしたが、このジーグが面白く弾けるというその身体反応が、今思えば正にmusizierenという動詞の実体なのでした。英会話を例に挙げると、英語に堪能な人は例外なく、喋れるようになる時は突然やってくると仰います(私は英会話はさっぱりですが)。海外転勤などでも、最初の2ヶ月かそこらは片言で相手の言う事も半分くらいしか聴き取れていなかったのが、次第に、というのではなくていきなり判るように、喋れるようになった、と。私自身のジーグの例もちょうどそんな感じで、本当に突然面白さに目覚める時があった訳です。ですが、今言いたいことは突然云々ではなくて、それがmusizierenの悦びであったということです。

シェーンベルクの、特に十二音技法以降の作品を頭で考えたシロモノであると見做す言説は、完全に誤りであると断言しますが、その根拠はこのmusizieren体験にあります。シェーンベルクは作曲家としてはプロ中のプロですから、耳で聴いて美しく、快楽をもたらす音楽は易々と書けたはずですが、さすがの彼も十二音技法を採用した初期には、その技法がmusizierenの快楽をもたらすかどうか、まず自らピアノに指を置き、友人や作曲の弟子たちとの試演を通じて試行錯誤を繰り返したのではないか、その結果、広く聴衆に聴かれるべき音楽としては随分内向きというか、インティメイトではあるが耳だけで理解しようとすると思いの他高い障壁を持つ音楽が生まれたのではないか。やがて自信を得てからの作品、私は30数年前にLPで容易に入手できたものしか知らず、知らない作品は沢山あるけれど、「モーゼとアロン」や有名な「ワルシャワの生き残り」など、大変な傑作で、関心を持って真摯に向き合えば必ずや聴き手に感動で報いてくれると思いますが、そこに至るまでにはそれなりの苦心惨澹があったのだろう、ということに私自身ようやく気付きました。

ちょっと脱線しますが、こういった種類の音楽は、楽器が弾けなければ判らないとは言えないか。あるいは、楽器が弾けたりスコアが読めたりしなければ判らないシロモノなど、そもそも音楽と言えるのか、という問いについて。あまりこういった事を書くと、鼻持ちならないと思われかねない。そうでなくとも罵詈雑言が飛び交うネット世界に対しての正しいリテラシーというのは、多分今回のブログみたいなことを書かない、ということに尽きるのでしょうが、それでは私は何も発信できなくなる。だから敢えて先ほどの仮想質問に答えると、まず当たり障りのないレベルでは「楽器が弾けなくとも何度も繰り返し聴けばきっと弾く人たちと同様の愉しみが得られる」、しかし本当のところは、「楽器を弾いたり楽譜を読んだり出来なければ厳しい音楽ってのは確かに存在する」。だいたいmusizierenという言葉自体、何度もいうが能動的身体的な言葉であって、ドイツ古典派からシェーンベルクに至る音楽というのは嫌味なほどこの身体感覚にこだわった音楽という気がします。そんなものは音楽ではない、というのは、「そう思う人にとっては」音楽ではない、というだけで、この「 」の言葉抜きでこういった言説を振りまわすのは逆に傲慢以外の何物でもないと思う。私はちょっと事情があってスポーツ全般が大の苦手。だからテレビでスポーツ観戦することにも全く何の興味もない。下手でもなんでも自らスポーツしなければ野球でもサッカーでも見て面白いわけがないと思う。だからと言って、スポーツの楽しさを熱く語る人に「苦手と言ってる俺にそんなことを言うとは鼻持ちならない」などとバカなことはもちろん言わない。でも世間ではスポーツに対するコンプレックスを持つ人間はひっそりと黙っているが、こと音楽とか文化的な事になるとコンプレックスを持つ側が逆に噛みついて来たりするのが面白い。何か文化におけるねじれのようなものを感じます。

まだ終わりませんよ(笑)。1952年のストラヴィンスキーにとっての「シェーンベルク・ショック」とは何だったのか。それまでシェーンベルクが大嫌いだったストラヴィンスキー、ドイツの音楽よりは断然ラヴェルの音楽に近い、知的な音楽を書いてきたストラヴィンスキーが、突如シェーンベルクの、いやドイツ音楽の本質は、ソナタ形式だのライトモチーフだのではなくてmusizierenという身体感覚にあったことに気付いたことではなかったか。それまで徹底的にリズムにこだわった、即ち身体的な音楽を書いてきたつもりで、シェーンベルク一派を”the gentlemen who work with formulas instead of ideas”(Joseph N.Straus”Stravinsky's Late Music”)と攻撃してきたのに、突如実はシェーンベルクのほうがより身体的で、自分こそideasのかわりにformulasで音楽を書いてきたと気付いた衝撃。しかしストラヴィンスキーが真に偉大だったのは、すかさずシェーンベルクに倣ったピアノを含む編成の七重奏曲で、音列技法と二重フーガを用いて、湧きたつようなmusizierenの悦びに溢れた音楽を書いたこと。70にもなってこの謙虚さと柔軟さ。世の年寄り達は頼むから見習ってほしい。ここまでくればもうどちらが偉大か、などという議論は意味をなしませんが、ものすごく大雑把に言えば、シェーンベルクは過去を閉じた音楽でストラヴィンスキーは未来を開いた音楽、ということは言えそうです。

「浄められた夜」について少しだけ。この演奏、ブーレーズ監修の弦楽六重奏によるものですが、それまでのブーレーズにはあり得ないほど表現の振幅が大きく、まさに表現主義的。自らの美意識のみを頼りとし、それにそぐわなければ作品の本質を踏みにじることも厭わないブーレーズですが、この録音の頃ようやくシェーンベルクの本質を尊重した音楽をやりだしたということでしょうか。ココシュカやエゴン・シーレにごく近いところにある音楽。これをムード音楽のように聴いては絶対にいけない。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-02-06 00:23 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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