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大井浩明 カールハインツ・シュトックハウゼン歿後5周年 初期クラヴィア曲集成

大阪万博のニュージーランド館で食べたマトンカレーをもう一度食べてみたい。
(ネタ切れ中)




大井浩明のPortraits of Composersシリーズの最終回はシュトックハウゼンの初期ピアノ曲の全曲
(KlavierstückeI~XI)と、晩年のオペラ「光」から派生的に生まれた作品KlavierstückXVIII のシンセサイザーによる演奏。

  2012年1月29日@白寿ホール
  クラヴィア曲I~IX 
    (休憩)
  クラヴィア曲XVIII ≪水曜日のフォルメル≫
  クラヴィア曲XI
  クラヴィア曲X
    (アンコール)
  ≪自然の持続時間≫より 第24曲


予想通りというべきか、やはりピアノ曲X の演奏が圧巻。前半はI からIX まで順番通り弾いたのですが、後半は順序を入れ替え、XVIII→XI→X という順番でした。
私のようなごく一般的な聴衆にとっては、シュトックハウゼンのピアノ曲Ⅰ~XI を全曲通してとにもかくにも聴き通すという事自体に大変な意義があった訳で、大井浩明のようなピアニストが出てきたから当たり前のようにこんなリサイタルを企画しているけれど、普通は一晩で全曲弾くなんてありえない話。しかし大井氏自身にとっても、全曲弾くという点に最大の眼目があった筈であり、こうすることによって作曲家の全体像に少しでも近づき、俯瞰する目線を得ようと考えたのだろうと思います。もしも時間的な、あるいは物理的・生理的、さまざまな制約がないならば、XI までとは全く作曲年代も様式も異なるXII~XVII や、「自然の持続時間」など、あるいは「マントラ」とか他のピアノ作品も含めて全部やりたいと思われていたに違いありません。そういった性格をもつリサイタルですので、聴き手としては全体を全体として受容するような姿勢さえあれば、小賢しいことは言わずとも、この演奏会を正しく享受できたといえるでしょう。しかしそうは言っても、個々の作品の印象は書き留めておきたいところ。
I~IV については、こういった性格のリサイタルですから殊更小手調べとして聞こえますが、V はメシアンを思わせるような装飾音符群の響きが大層美しく、早くも初期のシュトックハウゼンの音楽に陶然としてしまいます。V からVIII についてはいずれもダンパーを上げた状態で弦を共鳴させるハーモニクスや、3本のペダルの踏み込みの深さまで指定したペダリングなど、まずは音の美しさそのものを感じ取るべき作品でしょう。長大なVI、一つの音が完全に消え去るまで耳を澄ませなければならない、長い休符が頻発する作品ですが、本来こういったコンセプトは、梵鐘や仏壇のりんの果てしない響きが消え去るまで(大した我慢もせずに)耳を傾けていられる日本人には珍しくもないものでしょう。しかし、当日の会場では、この長い休符のところであちこちから深い寝息が露わに聞こえてきて恥ずかしい。これがジョン・ケージの「易の音楽」かなんかだったら、寝息もイビキも音楽の一部として許されるかも知れませんがこの時期のシュトックハウゼンの音楽は何というか、そういうノイズを許さないのですねぇ(笑)。困ったものです。
それはともかく、Ⅰ~VIII は基本的にはいわゆるクラシック音楽の延長線上にある音楽であり、伝統的なヴィルトゥオジテに則った作風。今の地点から振り返ればそんなにぶっとんだ感じはしない。これがIX になると相当いっちゃってる、というか、いきなり何かクスリでもやってそうなあぶない音楽になってしまいます。そしてX は今や戦後前衛作品の金字塔と言ってよいと思います。その規模の大きさ、後世への影響の大きさ、そして何よりも音楽それ自体としての力強さと美しさに掛けて、ブーレーズの第2ソナタと並び称されるべき作品でしょう。ただし、一般的な評価としては、X よりもXI の方が、その不確定性の採用によって、より歴史的に重要な作品と考えられているのかも知れません。

ちょっと個人的な思い出も含めて脱線しますが、ピアノ曲X といえば、なんといってもあのポリーニが1978年に来日した際の演奏が今も語り草です。私もこの時の公演の記録を昔読んで、実際に聴いた人達をどんなにうらやましく思ったことか。その記録はたいてい、それまできっちりした身なりをしていたポリーニが上着を脱ぎ、手にプロテクターをはめて舞台に現れたことへの驚きと、その後の火花の散るような凄絶な演奏への賞賛が書かれていたものです。私自身とシュトックハウゼンの音楽との接点に関して言えば、それからかなり時代が下って1989年のポリーニ来日時のリサイタルを聴く機会がありましたが、その時のプログラムはブラームスのOp.119、シェーンベルクのOp.11、シュトックハウゼンのピアノ曲VとIX、休憩を挟んでベートーヴェンの29番ソナタ「ハンマークラヴィア」という重量級のものでした(確か東京文化会館で聴いたはずです)。ヘルベルト・ヘンクやアロイス・コンタルスキーのCDを買ったのはそれよりずっと後のことですから、私はこのとき何の予習もなしでシュトックハウゼンのV とXI を聴いたことになります(今時はyoutubeでX だって聴ける時代ですが、その頃は絶望的に情報が少なかったのです)。そのせいか、V に関しては殆ど記憶にないのですが、対するにIX の記憶は今も鮮明です。強烈に憶えているのは、クラシック音楽の延長線上にあるV と、カルトな味わいのIX の間に横たわる深淵の目も眩むような深さ、それと、楽譜を見ながらポリーニは弾いていたのですが、途中で楽譜が楽譜立てからずり落ちそうになり、間一髪でポリーニが手で押しとどめたのですが、見ていたこっちが心臓がとまりそうになったことです。それでも、ポリーニのその時のIX は、終盤に出てくる、夜空に消えていく星屑のような装飾音符の乱舞が息を呑むばかりに美しく、シュトックハウゼンの音楽におけるピアノ書法(もっともそれは1952年から1961年という非常に限られた期間のことですが)に完全に魅せられてしまったのでした。私は最近のポリーニの公演には殆ど行っていないのですが、彼はその後もことある毎にシュトックハウゼンを取り上げています。ポリーニという演奏家に対する好き嫌いは措くとして、このことは大変素晴らしいことだと思います。
シュトックハウゼンのピアノ曲は、聴いた感じだけなので確信はないですが、X を除くとピアニズムという観点ではロマン派の名人芸の延長線上にあるといえます。指の回りと別次元の、リズムの複雑さや音価の測り方が極めて困難なことに由来する難しさ、さらにはハーモニクスや特殊なぺダリングの困難さはあっても、基本的には古典派やロマン派をきっちり学んだピアニストならば弾けるはず。しかしX に関して言えばもう完全に過去の音楽とは切断されており、ピアノの技巧ということに関しても、過去のそれとは全く異質。にもかかわらず言葉の通常の意味で超絶技巧の極致という感じがします。XI は不確定性が全面に出ている反面、ピアノ技法という点ではIX 以前に戻っている感じですが、これを事前の準備なしで本来の指定の如く、断片を目にとまった順番に弾く、というのは別の意味で困難さがあるのでしょう。いずれにしてもX 以外はプロのピアニストであれば何とか弾けるハズ。X だって、演奏には大変な困難を伴うと思うけれど、リサイタルに掛ける意義も大きく、報われるものも非常に大きいと思います。少しでも多くのピアニストが当たり前のように取り上げてほしいものだと思う。なんといっても、この時期のシュトックハウゼンのピアノ曲は、ピアノを弾きながら舞台の上で目玉焼きを作る必要もなければ、グランドピアノの蓋の上で全裸になる必要もないですから、その点は簡単ですねw。
話は変わるが、よく最近のピアニストが、現代モノ(同時代の作品、ということではなくて、一応エスタブリッシュメントとしての現代音楽という意味だが)にも目を配ってますよ、といったジェスチャーでリゲティのエチュードであったり、シャリーノであったりを採り上げることがありますよね。アマチュアのピアニストにヴァインなんかが最近人気あるみたいなのも、同様の文脈で理解する必要がある。それが決して悪いとは言わないがそれって現代モノと言っていいのか?と思うことがあります。ある意味「現代風」という衣装をまとったサロン音楽なんじゃないか(それが言い過ぎなら、ソフトコアな現代曲という言い方もある、同じようなものか)。その点、シュトックハウゼンのXI までの諸作品は紛れも無くハードコアなのに響きも美しく、超絶技巧が聴く者を魅了して已まない。もちろん、人気投票したらリゲティの10分の1も得票できないことはよく分かっている。

大井氏の演奏に戻りましょう。XI の演奏に際して、例の大判の断片がばらばらに記された楽譜と、事前に弾く順番を記したと思しい小さめの楽譜の両方を楽譜台に置いて弾いていました。事前に準備することによって失われるものと、事前の準備なして弾くことのリスクないしは困難について云々する資格は私にはありませんが、本当のことを言えばXI に関しては事前に準備した上で暗譜して弾くのが一番良い解決法という気がします。
そしていよいよX。殆ど全編を覆う凶暴なグリッサンドとクラスターとパルス。そして時々果てしない沈黙。人間の耳はどんな音にもいずれ慣れる、という意味で言うなら、私は初めてこれを聴いたとき、これは音の暴力だと感じて最後まで聞くのが辛かったのですが、すぐに慣れて、とうとうその響きを美しいと感じてしまうようになりました。こんな体験は他にはクセナキスの「ジョンシェ」(1977年)を聴いたときぐらいでしょうか。まぁ、斯く言う私だって高校生のころはシェーンベルクのOp11-3ですら音の暴力と感じていて、何度も聴くうちに堪らなく美しく感じられるようになった訳ですが・・・それはともかく、大井氏が上着を脱いだ時は、ああなんて締りのないカラダ、と別なところに注意力が行ってしまって萎えそうになりましたが、プロテクターを嵌めて弾き始めたらもうかっこよくてしびれました。いや、そんなことより大井氏の音質がこの音楽に本当によく合致しているのだと思いました。
順番は前後しますが、XVIII、なんというか、安っぽいミュージカル、あるいは暗黒舞踏かなんかの舞台音楽みたい、というのが正直な感想。とにかく私にはシュトックハウゼンの後半生の創作について云々できる知識が全く無いので、こんな印象だけでネガティヴなことは言いたくないのだが、ずっと居心地が悪くて難儀しました。これはアンコールの(その割には15分も掛かるけれど)「自然の持続時間」の終曲も同様。いずれにしても、生涯に亘る作品をいろいろ聴きたいと思うのですが、シュトックハウゼンのCDってなぜか馬鹿高いですね。いくらなんでもコスパ悪すぎだろうと思って買えません。それでもいつかは「光」を聴くことがあるかも知れませんから、ネタ元の「光」を聴かないうちはとりあえずXVIII の判断も保留しておきたいと思います。

このブログが大井氏の目にとまるかどうか判らないけれど、次回は会場のイビキや寝息が気にならないように是非ジョン・ケージ特集をお願いしたいものです。「易の音楽」は我々聴衆にとっても絶対に素通りしてはいけない音楽だと思いますので。白寿ホールのピアノはプリペアさせてくれなさそうだけど「易の音楽」ならその点も大丈夫だし(笑)。
by nekomatalistener | 2012-01-31 22:31 | 演奏会レビュー | Comments(2)
Commented by scriabinm at 2012-01-31 22:47 x
私は大井君の演奏やシュトックハウゼンについて語る資格を全く欠く者ですが、ひとつ感じるのは、やはり猫又さんの論評はピアノについてこそ(他の分野でも私には脱帽ものですが)光っていると言う気がします…個人的嗜好によるバイアスはあるかもしれません。
どうでもよいことですが、ポリーニの手袋演奏、TVでしか観てませんがなんだかとても懐かしいですねえ・・。思えば、彼も随分と遠いところへ来たものです。
更にどうでもいい事ですが、「よく最近のピアニストが、現代モノ(同時代の作品、ということではなくて、一応エスタブリッシュメントとしての現代音楽という意味だが)にも目を配ってますよ、といったジェスチャーでリゲティのエチュードであったり、シャリーノであったりを採り上げることがありますよね。アマチュアのピアニストにヴァインなんかが最近人気あるみたいなのも、同様の文脈で理解する必要がある。」には、リゲティやヴァインを弾こうとしている自分にはギクッとしました。まあ、「ある意味「現代風」という衣装をまとったサロン音楽なんじゃないか」と言うことなのでしょう。
Commented by nekomatalistener at 2012-01-31 23:31
scriabinmaniaさんご無沙汰しています。いつも拙文を誉めていただき恐縮です。でもピアノ音楽について書くのは本当に難しいと感じています。それとリゲティやヴァインのくだりですが、決して悪口を書いたつもりはないので誤解のないようにお願いします。ただ、ソフトコアが好きな人は決してハードコアに興味を示そうとしないような気がして、ちょっと寂しいなと思ったものですから・・・。
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