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ストラヴィンスキー 「兵士の物語」 作曲者指揮コロンビア室内アンサンブル(その1)

鼻中隔湾曲症である。しかも親不知を抜こうとしたら、真横に曲がって生えていて町医者では抜けなかった。さらに、この前虫歯で歯医者にいったら神経の通り道が歪んでいる、と言われ、歯の奥に薬詰めるだけで1時間掛かった(けっしてヤブ医者ではない、と思う)。でも性格は素直です。




前回ヤナーチェクについて書きながら、何度かストラヴィンスキーについて言及しました。初期の「春の祭典」や「結婚」についてよくバーバリズムという言葉が使われるけれど、私はそうは思わない、あれはブーレーズの言う通り「制御された混乱」に基づく極めて知的な音楽である云々といったことを書きました。
もう一つ、ストラヴィンスキーと言えば枕詞のように「カメレオンの如く」次から次に作風を変えたと言われますが、私は疑ってかかる必要があると思っています。この手の言説の多くは「初期のストラヴィンスキーは面白いけれど、中期以降の作品はつまらない」という俗説あるいは偏見とセットになっていることが多いようです。本当にいろいろ聴いてから仰っているのか甚だ疑問ですが。確かに彼は知的構築物を作るための道具は何度か替えたかも知れない。特に晩年の「アゴン」以降、シェーンベルクらの12音技法を用いだした時は世間はあっと驚いたようです。それに私自身、彼の作品を大きく初期・中期・後期と分けて考えることもあります。しかし私の見る所、彼ほど長期に亘って作品を書きながら、その中身の変化しない作曲家も珍しいのではないか、と思っています。まだ学生の頃の習作はいざ知らず、1908年の「幻想的スケルツォ」から1966年の「ふくろうと猫」に至る60年近いキャリアの中で膨大な作品を残したけれど、一言で言うなら「何を聴いてもストラヴィンスキー」。成長とか円熟というものが無いわけではない。しかし、ストラヴィンスキーは最初から完成された姿で世にデビューし、死ぬまで知的かつ洗練の極みのようなそのスタイルを変えませんでした。

知的で洗練された音楽と言えば真っ先にラヴェルを思いだすという人は多いと思いますが、実際に音楽の見掛けの姿はかなり違うけれども、その音楽に対するアプローチは意外と近いのではと思います。そう言うと(特にラヴェル好きの方の中には)憤慨する方もおられるかも知れませんが、そういった人にはまずラヴェルが1913年に書いた「ステファヌ・マラルメの3つの詩」と、ストラヴィンスキーが1912年から13年に掛けて書いた「日本の3つの抒情詩」を聴き比べてごらんになったらよいと思います。この頃二人の作風が最も似通ったものになったのは間違いありませんが、その後どんなに見掛けが離れていこうとも、彼らの拠って立つところは本当に近いような気がするのです。
ラヴェルも、その作品を見渡してみると、およそ人間的成長とか円熟といった言葉とは無縁の、最初から完成された作曲家という印象を受けます。この二人に捧ぐべき最も簡潔な言葉は「天才」です。そして、この場合の天才という言葉には、他に何も修飾語や限定条件など附ける必要がないと思っています。

ラヴェルとストラヴィンスキーに共通する特徴は、二人とも音の素材を加工し、組合せ、研磨して作品を作っていく際に、その素材の組合わせが決して(ベートーヴェンやブラームスのような、あるいはシェーンベルクのような)ドイツ的な動機Motivによる労作という姿にならず、ある種の数学的な操作によってそれらが化合しないままに結晶化していくような、そういう作曲法をとる所ではないかと考えています。そのせいかどうか、二人の作品にはどこかガラス質の、非人間的な響きがするような気がします。メシアンなんかも同様ですね。20世紀前半に限って言えば、ラヴェルやストラヴィンスキーの作曲法と、シェーンベルクらのそれが対立しているように見えますが、マクロな見方をすればこの二つのタイプを繋ぐのがウェーベルンといったところでしょうか。ある意味、ウェーベルンが戦後の音楽の旗手となったのも当然ですが、それは弁証法的世界観の喪失、構造主義の台頭といった思想の潮流と無関係ではありえないと思います。

のっけから脱線してしまいました。実はこれから、ストラヴィンスキー自作自演集CD22枚組について断続的に紹介していこうと目論んでいるのですが、それに先立って、この記念碑的録音の番外編ともいうべき一枚のCDのことを書いてみたいと思います。
  
  
  兵士の物語&管楽器のための交響曲
   
  兵士の物語
   語り手 ジェレミー・アイアンズ
   イゴール・ストラヴィンスキー指揮コロンビア室内アンサンブル
   1961年2月10&13日、1967年1月24日録音
   (語りの録音:2005年12月2日)
  管楽器のための交響曲
   ロバート・クラフト指揮コロンビア交響楽団
   1966年10月11日録音
  CD:SONY CLASSICAL 82876-76586-2

この録音が世に出た経緯を要約すると、①もともと1961年に組曲用としての録音を行なった。この頃台本作家のラミュと仲違いしていたストラヴィンスキーは全曲版への興味がなく、英語のナレーションも嫌っていた②それでも全曲版の録音にこだわったコロンビア側は、アフレコで語りを入れて全曲版を作るべく、組曲版に欠けている部分の録音を御大にお願いし、1967年にその録音が行なわれた③その後いかなる理由からか当録音はお蔵入りとなり、最初の録音から44年後の2005年にジェレミー・アイアンズの語りを被せてようやく日の目を見た、というところです。経緯はともかく素晴らしい演奏で、当時既に80になろうとする、しかも指揮を専門としてきた訳でもない老人のものとは思えません。実際には助手のロバート・クラフトの力もあったのかも知れませんが、いずれにしても切れ味鋭い、大変な名演といってよいと思います。ウェットな叙情や濃厚な表情の一切を排して音とリズムの組合せの妙だけで一時間ほど掛かる演奏を飽きさせません。しかもそのドライな演奏から、ふと怜悧なリリシズムが漂うところが素晴らしいと思います。
   
ところで、「兵士の物語」は数あるストラヴィンスキーの作品の中でも私が最も愛するものでして、一つだけ選べと言われたら(どだい無茶な話ですが)散々迷った挙句にこれを選ぶんじゃないかな、と思います。ところが、ここまで絶賛しておきながら、長らく私はこの作品のメチエの秘密が判らなかった、というか、今でもよく判っていません。なんでこんな音の組合せを選ぶのか、理論なのか感性なのか、私がこれを聴いて「洗練されている」と感じているのはいかなる理由によるのか、心のどの琴線に触れていると言うのか、これが全く判らない。
因みに最近演奏会でよく取り上げられているようで、ネットで検索すると夥しいブログがヒットします。幾つか目を通して見ましたが、面白かったつまらなかったの類の印象批評型、意外と沢山出ているこの作品の録音の聴き比べ型、作曲の経緯や作品の背景についてあれこれ語る蘊蓄披露型、大体この3類型。いえ、別に非難している訳じゃなくて、いずれも大いに楽しみながら読ませて頂きましたが、私が最も知りたいことはどこにも書かれておりませんでした。
ならば自力で、とにかく手元にあるCHESTER MUSIC社のスコアを素人なりに分析しながら、なんとかこの作品の魅力について掘り下げてみるしかありません(我ながら因果な性格だと思います・・・)。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-10-26 19:35 | CD・DVD試聴記 | Comments(4)
Commented by rosemary7 at 2011-10-27 13:53 x
わおっ、ジュレミー・アイアンズの語りでストラヴィンスキー指揮!!
おもわず、Amazonで買ってしまいました。

ラヴェルの評、
素材の組み合わせが化合しないままに結晶化していく・・・・

最近、以前にも増して、
Nekomataさんの分析能力・言語能力に圧倒されてきます。
ストラヴィンスキー評、期待しています。
Commented by nekomatalistener at 2011-10-27 18:37
ジェレミー・アイアンズお好きなんですね。私は最近映画はめったに観なくなったのでどんな役者か知らなかったのですが、兵士も悪魔も一人でこなして大奮闘ですよ。ストラヴィンスキー評、期待を裏切らないよう推敲中です。今しばらくお待ちください。
Commented by schumania at 2011-10-29 01:58 x
ジェレミー・アイアンズと言えば、「仮面の男」のアラミスですね。この人、マイフェアレディーのヒギンズ教授役のCDを持ってますが、相方がキリ・テ・カナワであることを考えれば、俳優としては素晴らしい歌い手と言えますね。ウェストサイドでキリの相方を歌ったカレラスよりも、ある意味、良いかもしれない・・・。
ストラヴィンスキー指揮のCD、是非、聴いてみましょう。
Commented by nekomatalistener at 2011-10-29 14:20
schumaniaさんも高い評価のジェレミー・アイアンズ。wikiで調べたら、見事なまでに出演作観たことない。たまには映画も観ないとな、と反省した次第。
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