ドニゼッティ 「連隊の娘」 びわ湖ホール公演

ブログのアクセスレポートの検索キーワードを見てちょっと笑ったやつ2件。
「ポゴレリチ 客席を見る」
「フロリアン フォークト 嫌い」
これで私のブログを訪れた方がどうかがっかりしてませんように。





昨年の「ドン・パスクァーレ」に続いてまたもドニゼッティ。今回は中ホールでの公演でしたが、ベルカント好きのファンに支えられてそれなりの盛況でした。

 2017年2月12日@びわ湖ホール中ホール
 ドニゼッティ 「連隊の娘」
  マリー: 飯嶋幸子
  トニオ: 小堀勇介
  ベルケンフィールド侯爵夫人: 鈴木 望
  スュルピス: 五島真澄
  オルテンシウス: 林 隆史

  園田隆一郎指揮 大阪交響楽団
  びわ湖ホール声楽アンサンブル
  演出: 中村敬一

演出の中村敬一氏によるプレトークがあって、ヴェルディの「ナブッコ」の少し前に書かれたことから、オペラというものが貴族やブルジョア階級の嗜みから市民の愉しみに変わりゆく時代の推移について触れられていましたが、実際の楽しい舞台を観ているとまぁそんなことはどうでもよくて、ひたすら音楽を楽しむというのが正しい享受のあり方という気がします。
実際、吉本新喜劇みたいなお話に、ドニゼッティの中でも極め付けの脳天気な音楽。このブログで何度か書いてきたように、ドニゼッティには「ロベルト・デヴェリュー」や「マリア・ストゥアルダ」のような天才的な作品があるのだが、こちらはお世辞にも傑作という感じはなくて、せいぜい手練れのオペラ職人のやっつけ仕事といったところ。だが、トニオの有名なハイCが頻出するアリアを聴くとどうしようもなく胸が高鳴るし、マリーのロマンスには思わず涙腺が緩んでしまう。この快楽と無縁の人のほうが寧ろ世間のクラシック好きやコンサートゴーアーの中ではマジョリティかも知れないというのは寂しくもあるけれど、冬枯れの琵琶湖畔でこういった密やかな愉しみを味わうにはその寂しささえ一種のスパイスになるような気もします。

今回の公演は何より主役の二人の歌唱が素晴らしかったと思います。トニオの小堀勇介は初々しい歌いぶりで大変好ましく思いました。見た目と声と純朴な役柄が寸分のずれもなく一致している感じ。例の9連続ハイCは、あまりにも軽やかなので拍子抜けしそうになります。これならCisでもDでも大丈夫そうと思うが、これは大変なことに違いありません。パヴァロッティのレコードで聴いてきたような興奮とは違いますが、どちらかと言えばバカでおっちょこちょいなトニオのアリアには背筋に電流が走るみたいな興奮は不要なのだと気付きました。それでもびわ湖の客は皆さん耳が肥えてらっしゃるのか割れんばかりの拍手。小堀さんも本当にうれしそう。いいもの聴いたなと思います。
マリーの飯嶋幸子も策を弄せず愚直に役柄に取り組んでとてもよかったと思います。コロラトゥーラも危なげなく、ロマンスもしんみりと聴かせます。もっと手練手管の限りを尽くすみたいなやり方もあるんじゃないか、と思いながらも、この素朴な人たちばかりのオペラにはこれで十二分じゃないか、とも思います。
その他ではスュルピスの五島真澄が美声のバリトンで思いのほか良かったと思います。最後にちょこっとだけ出てくるクラーケントルプ公爵夫人を増田貴寛が演じていましたが、まるでマツコ・デラックスみたいな衣装で存在感を発揮。侯爵夫人の鈴木望も最後に悲しみと威厳をちらっと垣間見せて後味よく大団円を迎えました。
あと忘れてはならないのが兵隊や農夫や小間使い達といった役柄の合唱。この軽いオペラにはもったいないほどの立派な合唱で、贅沢な気分を味わえました。

園田隆一郎の指揮も秀逸。なんの引っ掛かりもない脳天気な音楽だからこそセンスがまともに出てしまう怖さがある音楽ですが、本当になんの引っ掛かりもなく楽しめたのは実は凄いことだと思います。初演当時のパリの当世風なのか、些か軽佻浮薄な音楽と、ベルカントの神髄たるロマンスが何の矛盾もなく同居するこの音楽で指揮者のセンスの良さを感じたのは意外な喜びでした。
演出もまた妙なひねりの一切ないもの。衣装も身のこなしも兵隊さんは兵隊さんらしく、貴族は貴族らしく、といった感じ。下手にはしゃがれると辟易すること必至のお話だけにこれはありがたい。よくも悪くも素直、という言い方があるけれど、今回はその素直さがすべて良い方向にいったんじゃないかな。フランス風のオペラ・コミークなので地の台詞による学芸会みたいな芝居が音楽を繋いでいくのですが、これが全てフランス語。まぁ若干尻がもぞもぞする感じもあるものの、フランス語と日本語のまぜこぜよりはマシかなといったところ。難しいものです。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-02-15 00:43 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その9)

分け入つても分け入つても社畜





60年代の作品を聴いていきます。今回は1965/69年に書かれた大規模なオルガン作品。

  CD10
  聖なる三位一体の神秘への瞑想(1965/69)
  
  オリヴィエ・ラトリー(org)
  2000年7月パリ・ノートルダムで録音

1965年の即興演奏を元に作曲され、メシアン自身の演奏で1972年3月29日、ワシントンDCの無原罪の御宿りの聖母教会で初演されています。
どうも私はメシアンのオルガン作品と相性が悪いのではないかと考えています。ピアノや管弦楽のための作品にくらべると、より実験的、即興的な要素が強いように思われますが(それはとりもなおさず、メシアンにとってオルガンが最も身近な楽器であったという証左でもあるのでしょう)、聴く側からすれば些かしんどいという感じがします。今回取り上げたような長大な作品だと、最後まで何度も聴き通すのはかなり忍耐のいる仕事でした。いや、実験的であること、長大であることが悪いのではないでしょう。私はもっと前衛的で長大な作品、例えばシュトックハウゼンであれフェルドマンであれ、これほどまで苦行めいた聴き方はしてこなかったはず。ならば相性が悪いとしか言いようがありません。それと、他のジャンルの作品とくらべてカトリシズムへの耽溺の度合いが著しく強い感じがして、それもつい敬遠してしまう原因かもしれません。まぁそれを言うなら「20の眼差し」だって同じようなものかも知れませんが、あちらは絢爛たるピアノ技巧が楽しみの大きなポイントになっているので大部分の聴き手はカトリシズムの教義を忘れて聴くことができる。だがそれが果たして正しいメシアンの享受のあり方かという疑問を持たざるを得ません。少なくともオルガン作品の場合、楽器の制約によってピアノほどの目覚ましい技巧は使えないので、その分カトリシズムという要素が全面に出てきて、私のような不心得な聴き手を苦しめるのかもしれません。

全部で9つの楽章から出来ていますが、解説によれば3つの性格を持つ3曲のセットから出来ているとのこと。すなわちⅠ:三位一体のそれぞれ(父と子と聖霊)に捧げられたもの(第1・6・7曲)、Ⅱ:神の様々な属性を表す音楽(第2・5・8曲)、Ⅲ:トマス・アキナスと出エジプト記に書かれた神の記述(第3・4・9曲)。曲順にこのカテゴリーを記すとⅠ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅰ→Ⅰ→Ⅱ→Ⅲとなっていて、タイトルの三位一体と音楽の3曲×3セットの構造が照応しています。一方、この作品の中でメシアンは"langage communicable"という技法を第1・3・7曲で用いて音と言葉(文字)を照応させようとしているらしい。これが何を意味しているのかはスコアを取り寄せて分析しないと何とも言えませんが、これもまた晦渋な印象の原因なのかもしれません(ふと思い立って楽譜販売のサイトをみたら税込で22,356円もするので絶対取り寄せないと思うけど・・・)。
解説はともかく、耳で聴いた印象をもう少し分析すると、概ね3つのタイプの音楽にカテゴライズできるような気がします。まず9曲中6曲がオッフェルトリウムとでも呼べそうなソロと応唱が交替していくタイプの音楽で、その内第1・5・9曲が調性のないソロに先導され(カテゴリーA)、第2・6・8曲がグレゴリオ聖歌風のソロに先導されます(カテゴリーB)。全体に不協和音と無調的なパッセージに満ちた音楽の中で、カテゴリーBの3曲は比較的取っつきやすくて、聴いて楽しくまた美しい響きが随所に出てきます。第2曲のソロはあの「天の都市の色彩」で聴かれた東洋風の旋律で、私はてっきりガムランにインスパイアされたものと思っていましたがグレゴリオ聖歌をモディファイしたものと言われたらそんな気もしてくるのが面白い。第3・4・7曲はオッフェルトリウムの構造を持たないもので、トッカータ風であったり鳥の歌であったり、といった曲想(カテゴリーC)。これを曲順に並べるとA-B-C-C-A-B-C-B-Aとなって、シンメトリックという訳ではないがやはり3曲×3セットという構造が見て取れます。もっとも、こうやって分析しても苦手な作品が聴き易くなるわけでもなく、やはり難物だと思わざるを得ません。

演奏についてはこのシリーズの(その5)に書いた以上の印象はありませんので繰り返しません。何度聴いても腹に入らない音楽ですが、しばらく冷却期間を置くことにしましょう。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2017-01-08 18:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

三輪眞弘の個展を聴く

紅白は家人が観るのでなんとなく目に入るだけなんだけど、SEKAI NO OWARIだけは目が耳が否応なく吸い寄せられる。なんかJ-POPで世界観みたいなものを感じさせるって凄いよね、知らんけど。





連休をだらだら過ごしていたらいつの間にか年が明けている。とりあえず去年聴いた最後のコンサートの備忘を書いておこう。


 2016年12月25日@フェニックスホール
 「声のような音/音のような声」三輪眞弘作品集
 (1)言葉の影、またはアレルヤ
 (休憩)
 (2)独唱曲「天使の秘密」
 (3)再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代
 (4)独唱曲「訪れよ、我が友よ」+「新しい時代」
 (休憩)
 (5)フォルマント兄弟の「スターバト・マーテル」
 (6)合唱曲「新しい時代」The New Era
 (7)ポップソング wach jetzt auf!

 丸谷晶子(Sp)
 岡野勇仁(MIDIアコーディオン)
 山名敏之(cemb)
 Orphe Choirs(合唱)
 大阪大学「芸術計画論」受講者有志(kb)

三輪眞弘の作品をライブで聴いたのは3回目。今回の作品はいずれも三輪眞弘が2000年に書いたモノローグ・オペラ「新しい時代」のスピンオフ作品で、最初の「言葉の影、またはアレルヤ」がオペラの前に書かれた以外はすべてオペラ完成後の作品。このオペラについて私はなにも知らないのだが、作曲者自身のトークから推し量ると、90年代後半に日本中を震撼させた二つの事件、すなわち1995年の地下鉄サリン事件と97年の神戸連続児童殺傷事件、それにまつわる「言葉」に対する思索がきっかけとなって作曲されたのだという。演奏に先だって企画・構成の伊東信宏氏と三輪氏とのトーク。作曲者はけっこう饒舌な方であるがトークはけっして判りやすい内容ではない。私の受け止めたままにあえて要約すれば、作曲者はあの教祖の名前を連呼する、一度聴けば忘れられない歌であるとか、14歳の少年による警察やマスコミを愚弄する一連の手紙であるとか、こういったテクストのもつ強度、明晰であり恐るべき訴求力をもつ言葉に対する羨望と絶望の入り混じった感情を吐露されていたように思う。もうひとつトークで興味深かったのは、この人は「歌」を書くというのがそもそも苦手である、個人の感情をメロディーに乗せて公にするということが出来ない、という話に続けて、しかし架空の教団の布教歌であれば大丈夫だと話していた。今回の最後のポップソングがまさにそれ。そういえば前回私がこの人の個展を聴いたときも、この人の言葉というものに対する強いこだわりを感じたのだが、今回の個展はそこに焦点を絞った好企画であったと思う。
実はこの個展を聴いて、私も音楽と言葉について何かしら思索の跡を言葉にしてみたいという誘惑に駆られていた。だがこの人の個展はプロの音楽家やライターがけっこう集結する場でもあるらしくて、例えば白石知雄氏の次のような文章を読むと素人が出る幕というのはほとんどないと思い知らされる。


と言う訳で、今回もそれぞれの作品の中でなにが起こったのかを書き残すに留めておきたい。
まず最初の「言葉の影、またはアレルヤ」について。会場の照明が落ちると、4人の黒い衣裳のキーボード奏者が現われ、互いに向き合って舞台の上に座る。なにかの儀式のように一礼。やがてミニマル音楽のような旋律の断片をそれぞれが弾き始め、少しずつ変化していくが、その変化のスピードは気が遠くなるほど遅い。よくあるミニマル音楽のモアレ状の変化よりも、キーボードの発する音のノイズ成分の変化のほうが結果として印象にのこる。これが30分ほども延々と続く間、何度か意識が飛びそうになるが、途中で数回ノイズが凝り固まった末に「ア、レ、ル、ヤ・・・」という囁きに聞える瞬間が出てくる。私は最初4人の演奏者が囁いているのかと思ったがどうもそうではないらしい。一体どのような仕組みなのか、これもフォルマント合成音声の一種なのだろうが、私はアメーバのように不定形な動きをしていた粘菌が、時期が来ると子実体を作って胞子を散布する映像を思い浮かべていた。機械の発する言葉は不気味であるが、これがなぜ不気味に思われるのかというのも考えてみると不思議ではある。フロイトの『不気味なもの』を再読したくなった。
第二部をとりまく二つの歌曲、「天使の秘密」と「訪れよ、我が友よ」+「新しい時代」はいずれもPCから流れるミニマル風の伴奏に乗せて歌われるもの。最初の「言葉の影・・・」もそうだが、このミニマルを構成する音楽の断片はいずれも「神の旋律」と呼ばれていて、オペラ「新しい時代」の基本原理となっている。歌そのものは何の変哲もない、どちらかといえば単純なものだが、なんとなく感じられる落ち着かなさについては最後のポップソングと併せて後述する。
第二部の、というよりこの個展の中心に位置づけられる「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代」は大変興味深い作品で、これを聴けただけでも元が取れた感じがする。作曲者自身が舞台に一台のラジカセを置きに現われ、スイッチを入れて立ち去る。このラジカセと客席を取り囲む6チャンネルのスピーカーから、繁華街の雑踏の物音が聞こえてくる。やがて教団の信者と思しい若者のモノローグがあちこちから聞こえ、最初は聴力検査かと思うような微弱な音で教団の神の旋律が鳴っていたのが次第に大きくなっていく。殆ど真っ暗だった会場は、背景の壁がゆっくりと上がるとフェニックスホール自慢のガラス張りの向うに煌めく大阪の夜景が現われ、やがてまた背景の壁が降りて闇に閉ざされる。聴き手としては当然ながら、生の音声、アク―スティックな楽音が一切ない大作をコンサートの真ん中に配置した意図を探らずにはいられないのだが、何分言葉が熟して行かないので別の機会に譲りたい。
第3部はチェンバロとMIDIアコーディオンとソプラノによる「スターバト・マーテル」から始まる。ペルゴレージの「スターバト・マーテル」の最初の二重唱を、生身の歌手とMIDIアコーディオンのフォルマント合成による音声が歌うという趣向。MIDIアコーディオンの不安定さというのは、アコーディオンのボタン操作で子音と母音を指定することの非合理的な指使いにあるように見えた。もちろんこの不安定さそのものが作曲者の狙いなので、聴衆としてははらはらしながら(時に笑いをこらえながら)聴いているしかない。
合唱曲「新しい時代」も一筋縄ではいかない。一見活気に満ち溢れた布教ソングのように始まるが、その錯綜ぶりはなかなか半端なものではなくて、それまで伴奏ないし背景音として聴いてきたミニマル音形が合唱で展開されているかのようだ。
最後のポップソングも歌手とMIDIアコーディオンによる重唱(?)。明確な調性に基く音楽を現代音楽というシーンの中に置くことの、本質的ないかがわしさといったものを、架空の宗教団体のイニシエーションに置き換えるという意図、あるいは(作曲者は一種の照れというのか韜晦というのか、「歌」と言っていたが)調性音楽はもはや「夢落ち」のレベルでしか書けないという問題意識はここにきて明白。

私はこの雑文を専ら自分の備忘として書いていて、この場に居合わせなかった方にそこで得られた感興について伝えるのは本当に難しいことだと思う。しかし、私は2016年に聴いたすべてのコンサート(本当に恥ずかしいくらい少ないのだけれど)の中では、先日の京響の「グルッペン」に次いで印象深いものとして、つまり3月の「イェヌーファ」公演や、7月の「真夏の夜の夢」公演を凌ぐほどの面白いものとして感じ、受け止めたことを書きとめておきたい。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-01-03 13:21 | 演奏会レビュー | Comments(0)

シェルシ 「山羊座の歌」を聴く

「オスマントルコ」でGoogle検索406,000件に対して、「雄マントルコ」240,000件って多すぎるやろ。





23日は昼にグルッペン、夜にシェルシの「山羊座の歌」というダブルヘッダー。もうお腹いっぱい。


 2016年12月23日@カフェ・モンタージュ
 ジャチント・シェルシ 独唱のための「山羊座の歌」(抜粋)
 (第1,2,3,8,13,14,16,17,18,20曲)

 Sp:太田真紀


例によって店主高田氏のプレトークにほっこりさせられる。店主曰く、今日のお客さんはお昼のみやこめっせから流れてきた方が多いと思う。どうすれば昼公演に対抗できるか考えてきて、シェルシをやることにした。多分東京からもたくさん関係者が集まっているはずなので夜にこういうのをやれば皆さんくるだろう・・・(笑)。
カフェのいつもの観客席に30脚ほどの椅子、そしてそれに相対するように8脚の椅子が並べられている。観客席に向き合うように楽譜スタンドが立てられ、そのすぐ後ろに8脚の椅子に向き合うようにもうひとつスタンド、8脚の後ろにもスタンド、客席の真後ろの階段の上に更に一台のスタンド、つまり合わせ鏡のように四面舞台が設えられていて、8脚並びの椅子にもお客さんがすわる(当日はキャパ40人ほどのカフェは店主の読み通り満員御礼であった)。店主の「3つのオーケストラに対抗して四面舞台にしたら、ケージは五面舞台でした」というトークに皆大笑い。
ジャチント・シェルシについては何の予備知識も持たずに聴いた。「山羊座の歌」は夫人である平山美智子氏の存在がなければ生れ得なかった作品であること、1962年に原型が出来てから長い時間を掛けて作曲されたこと、ジェラール・グリゼーやトリスタン・ミュライユに影響を与えたこと、アシスタントに採譜させるスタイルが多少物議を醸すことがあったらしいこと、等々は後で知ったことである。
店主が照明を少し落とすと、お辞儀も拍手もなく控室からゆっくりとブリキの太鼓のようなものを鳴らしながら歌手が登場し、階段を上って歌い始める。歌、には違いないが、テキストらしきものは聴き取れない。微分音やグリッサンドの多用、舌打ちや喉を緊張させて絞り出すような声、それこそ山羊のべぇぇぇぇという鳴き声に似た声、叫び声、カップを口にあててこもらせた声、等々なんとも呪術的な世界が立ちのぼる。歌手は四面舞台を行ったり来たりしながら歌う。知らない人がこの光景を見たら、変な宗教の教祖様と信者の秘儀だと思うに違いない。
語法的にはべリオの「セクエンツァⅢ」(1965)やケージの「アリア」(1958)、リゲティの「アヴァンチュール」(1962)「ヌーヴェル・アヴァンチュール」(1966)、シュトックハウゼンの「私は空を散歩する・・・」(1972)なんかを聴いてきた人間にとっては腰を抜かすようなことはないのだけれど、ここで引合いに出した諸作と比べてもその音そのものへの執着というのは際立っているように思う。反面、洗練とか繊細さへはあまり関心が無さそう。およそ聴き手を楽しませようとするサービス精神も欠如している感じ。とはいえ、途中2回ほど現われる民謡風、あるいは日本の童歌(「かごめかごめ」のような)を思わせる単純な歌があったり、エコーマイクを通してグリッサンドの上端の音を響かせたり、終曲はリコーダーを吹きながら短3度の音程で発声したり、とあれこれしている内に45分ほどの時間があっという間に経ってしまったのも事実。音楽に感動や癒しを求める人には決してお薦めしないけれど私は実に面白く聴いた(深入りしたいかと問われたら微妙ではあるが・・・)。
歌い手の太田真紀にはお疲れ様の一言。この曲の演奏でこの人をどうのこうの評するというのは私には不可能である。べリオ、ブゾッティ、シャリーノなどを得意としているということなので機会があれば聴いてみたい。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2016-12-25 11:16 | 演奏会レビュー | Comments(0)

京都市交響楽団創立60周年記念特別演奏会 シュトックハウゼン 「グルッペン」

猫にいつものカリカリじゃなくて猫缶あげたら余程美味いのかフガフガいいながら食べてる。クリスマスだしいいよね。





関西でグルッペンを生で聴く機会があるとは思わなかった。しかもケージとの取り合わせ。

 2016年12月23日@京都市勧業館みやこめっせ(第3展示場)
 シュトックハウゼン 3つのオーケストラのための「グルッペン」(1955~57)
 (休憩)
 ジョン・ケージ 5つのオーケストラのための30の小品(1981)
 (休憩)
 グルッペン(2回目)

 指揮
 シュトックハウゼン1・ケージ5:広上淳一
 シュトックハウゼン2・ケージ1:高関健
 シュトックハウゼン3・ケージ4:下野竜也
 ケージ2:大谷真由美
 ケージ3:水戸博之
 京都市交響楽団


今回の演奏会は京響60周年記念演奏会ということなのだが、それにしてもなんという大胆なプログラム。しかも驚いたことに何百人、何千人いるのか分からないけれどぎっしりのお客さん。いわゆる現代音楽だけのプログラムでこの集客は驚異的、というより殆ど有り得ないことだと思う。グルッペンが世に出てほぼ60年で、日本で演奏されるのはこれが3回目だという。東京からもたくさんの音楽関係者や好事家が集結していたのは間違いないにしても、どうみてもオタク系でないごく普通のコンサート客が大半を占めている。これはひょっとして1曲目で半分くらい帰っちゃうんじゃないか、と危惧していたが、最後までそんなに減った印象はない。休憩時にごく普通の若夫婦やオバサマ達の会話を聞くともなく聞いていると、「なんか難しいけど面白いね」「下野さんカワイイ!(笑)」といった感想が聞こえてくる。演奏中もみんな身じろぎもせず聴いている感じ(ケージのときはさすがに爆睡客が多かったみたいだが・・)。聴衆のマナーも上々。京響おそるべし。京都という町の懐の深さはもっとおそるべし。本当にこのオーケストラは日本一、いやもしかすると世界一市民から愛されているのかも知れない。
会場のみやこめっせは普段は企業の展示会などに使われているようだが、そのだだっ広い展示場(4千平米!)の正面と四方の5ヶ所にオーケストラ席があり、それに取り囲まれたフロアに折畳み椅子が並べられている。一旦座ってしまうと身動きもできないほどの詰込ぶりに、おそらく主催者だってここまでの盛況は予想していなかったことが伺われる。演奏前にNHKの岩槻アナの司会でまずは指揮の広上氏登場。60周年の記念に常任指揮者3人で何かやろうということになり、最初はモーツァルト(たぶん4つのオーケストラのためのセレナード第8番と、3台のピアノの協奏曲)などが案として挙がっていたようだが、下野さんが「グルッペンやりたい」と言い出し、高関さんが「いいね」、広上さんは「・・・?」だったそうだ。
さて肝心のグルッペンだが、私は生でこの作品を体験できただけでもう感無量であった。しかも3人の指揮者の確信に満ちた指揮を見ていると、完全に作品が手の内に入っているという印象を受けた。3つのオケが合うべきところでびしっと合うのには一種の生理的快感を味わった。中ほどより少し後の、3つの金管群が同じコードを吹き交わすところは(録音で聴いて想像はしていたけれど)頭のまわりをぐるぐると音像が駆け巡る。この目眩にも似た身体的な快感は本当に素晴らしい効果で、セリエリズムがどうのこうの、といった議論を吹っ飛ばすだけの力がある。会場が会場だけに、弦の音が届きにくい(ただでさえデッドな音響なのにフラジョレットやピッチカートを多用したりするので余計に)憾みはあるけれど、管と打楽器はほぼ過不足なく聞こえた。いやむしろシュトックハウゼンが書いた精緻極まりないスコアを耳で聞いて体験するには、音が融け合わないこのデッドな空間は意外に悪くなかったとも思えた。

休憩を挟んで今度は岩槻アナと高関氏のトーク。ケージ作品は3つのオケが緊密にリンクするグルッペンと異なって、5つのオケの指揮者とメンバーは自分の属するオケのスコアしか見ることができず、各曲の時間の中で、他の4群の音を聞きながら「適当に入っていく」のだそうだ。拍手が静まると会場のどこからともなくラジオの音が流れてくる。この日23日の15時過ぎのNHK第一ラジオはニュース解説でヘイトスピーチがどうとかの後にシェイクスピアの「ヴェニスの商人」の放送劇をやっていたのだが、それが演奏中にずっと流れている(なんか出来過ぎのような気がしたが後で調べてみたらリアルタイムでやっていた)。5つのオケといっても基本は音がスカスカなところがケージらしい。何より面白いのはこの偶然性という基本原理と作品の構造的な緩さというものが耳で聞いて如実に実感できるということ。先にも書いたが、聴衆がついつい眠りに落ちてしまうのも、グルッペンの緊密な書法と正反対のケージの書法を正しく受け止めた結果だとすれば、爆睡するのもまったくOKということになるだろう。まったくグルッペンと並べてケージをやろうという発想には恐れ入る。私はグルッペンの一回目と同じ席、会場の真ん中よりすこし後方(グルッペンの3人の指揮者は一望できるがケージの第1・第4オケは見えない)で聴いたのだが、グルッペンより更にサラウンドな音響効果を期待したが後方の2つのオケは殆ど後方から響いているようには聞こえなかった。これは人間の耳の構造上やむを得ないことなのだろう。第4オケにはパーティーで使うクラッカーのようなものも置いてあったはずだがこれも聞こえなかった。こんなことも生で聴かない限り決して分からないことだろう。

ケージのあとの休憩で何と席替え。一旦荷物を持って外にだされた客が大槻アナの合図で一斉に前方の席取りに駆け出すのは壮観でもあり、ちょいと危険な感じもするが、京都のお客さんは(大阪と違って)筋が良いので事故もなく席替え完了。こんなこと書くと大阪人に怒られそうだが、京都の人は性格は悪いけど民度は高い(大阪はその逆)ので仕方がない。私は後半は下野さんの第3オケのすぐ近くの席を確保した。
最後は下野氏のトークで、あんまり覚えていないが(笑)人柄の良さだけはよく分かる。そして2回目のグルッペン。こういった作品で繰り返し聴けるのは本当にありがたい。聞こえ方の違いそのものも面白いが、舞台狭しと並べられたザイロリンバやタムタム、スネアドラムとアフリカンドラム、カウベルといった夥しい打楽器群と、気迫に満ちた奏者の動きという視覚的な要素も加わってより面白く、この作品を本当に堪能したといったところだ。演奏後のなかなか熱狂的な拍手に、これは現実の光景だろうかと訝しく思ったほど。ケージはともかく、グルッペンは完全に古典の領域に入ったと言えるかもしれない。それにしても昨年のサントリーホールのツィンマーマンの時も思ったが、前衛的な音楽は客が入らないと思い込んでいるプロモーターは少し考えを改めたほうが良いのではないか。この日の偉業はしばらく業界の語り草になるだろうが、是非とも他のオーケストラやオペラハウスのレパートリー拡大に繋がってほしいものだと思う。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2016-12-24 23:38 | 演奏会レビュー | Comments(0)