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万博に寄せて(タイムカプセルのこと)

ここしばらくずーっと頭の中がティンコンカンコンティンコンカンコンしてる。今年の流行語大賞はコレでキマリ笑。





1970年の大阪万博の際、松下電器産業株式会社(現パナソニック・ホールディングス株式会社)のパビリオン「松下館」において、当時のさまざまな科学技術、社会・芸術・風俗の記録を展示し、万博終了後にタイムカプセルに収め、5000年後の西暦6970年に開けることになった(実際にはこのタイムカプセルは大阪城公園の天守閣前広場に埋められている)。
実際にどんなものが埋められているのかは、パナソニックのHPに詳細があるのでご覧いただくとして、


中でも興味を惹かれるのがそこに収められた音楽の目録。実際6970年に磁気テープの形で納められたそれらの録音が再生可能なのか、といった疑問は措くとして、クラシック音楽に限って内容を列挙してみたい(転記にあたり若干の字句修正を行った)。

欧米のクラシック音楽ダイジェスト
作曲者不詳グレゴリオ聖歌より“キリエ17番”・“クレード1番”
レオナン〈ユダとエルサレム〉2声のオルガヌム
ジョスカン・デ・プレ〈パンジェ・リングア〉
バレストリーナ〈スタバト・マーテル〉ラルゴ・マ・ノン・トロッポ 74-93章節
モンテベルディ〈マドリガレ集〉より“むごいアマリリ”
コレルリ〈合奏協奏曲集 op.6 No.8〉より第6章“パストラーレ”(ラルゴ)
J.S.バッハ〈カンタータ 第4番〉より“シンフォニアと第4節コーラス”
ハイドン〈弦楽四重奏曲 op.64 No.5 ひばり〉より第1楽章
ベートーベン〈交響曲 第5番 op.67 運命〉第1楽章
シューマン歌曲集〈詩人の恋 op.48〉より第1曲“美しき五月”
ワーグナー楽劇〈トリスタンとイゾルデ〉より第1幕 前奏曲
ムソルグスキー 歌曲集〈死の歌と踊り〉より第1曲“トレバック”

1900年以後の現代音楽
ドビュッシー〈ペレアスとメリザンド〉
ストラビンスキー〈春の祭典〉より第2部終曲“いけにえの踊り”
シェーンベルク〈ピエロ・リュネール〉(月につかれたピエロ)
ウェーベルン〈弦楽四重奏曲 op.28〉
プロコフィエフ〈交響曲第5番〉より第3楽章
メシアン〈トゥランガリラ交響曲〉より第5楽章“星の血の喜悦”
ブーレーズ〈ル・マルトー・サン・メートル〉
シュトックハウゼン〈少年の歌〉
ジョン・ケージ〈プリベアード・ピアノ・コンチェルト〉

邦人作品
三善晃〈ヴァイオリン協奏曲〉
矢代秋雄〈ピアノ協奏曲〉
武満徹〈ノヴェンバー・ステップス 第1番〉
間宮芳生〈合唱の為のコンポジション第4番〉
黛敏郎〈涅槃交響曲〉
団伊玖磨 オペラ〈夕鶴〉
山田耕筰〈からたちの花〉〈赤とんぼ〉〈この道〉〈ペチカ〉〈かやの木山の〉〈砂山〉

選んだ人がどれほど真剣に考え抜いたことかと、想像すると微笑ましく思ってしまうほど。1900年以降の音楽と邦人作品に関して言えば、1970年という時点においてはまぁ妥当なところなのかな、と思うが、最初の「欧米のクラシック音楽ダイジェスト」はかなり思い切った、というか大胆というか、クセが強すぎというか笑、グレゴリオ聖歌の時代から国民楽派までの数百年に垂んとする期間をゴシック、ルネサンス、バロック、古典、ロマン派と大きく様式別に分けて初期・後期からそれぞれ一つ、みたいな選び方をすればこのような結果になるというのは理解はできる。できるけれども、モーツァルトもショパンも無いの?バッハはよりによって最初期の作品だけ?と疑問をあげていったらキリがない。だが、よくよくこのリストを眺めていると、やはりこれはこれでアリかな、いやむしろこれしかないのかな、と思わせる不思議なラインナップである。
ちょっとした思考ゲームだが、もし当時の選考委員が今現在存命だとして、現時点でこのリストに何を追加するだろうか、と考えるのも楽しい。当然1970年以降、ということになるのだが、これが意外に思い浮かばない。音楽史上エポックメイキングな作品としてすぐにも思い浮かぶもの、例えばベリオのシンフォニア、クセナキスのピトプラクタ、ペンデレツキの広島の犠牲者への哀歌、湯浅譲二のヴォイセス・カミング、いずれも60年代以前なのですね。もちろん70年以降が不毛であるとは一切思わないし、私の貧弱な視聴体験でもオンジェイ・アダメクとかスティーヴン・カズオ・タカスギとか近藤譲とかとんでもなく面白い音楽は沢山あるが、いかんせん時間の淘汰を経ていないという感じは如何ともしがたい。まぁそういう意味では、このリストにない名前で70年代の作品、かつある程度のポピュラリティあるいは大御所感もある、ということでクセナキスのプレイヤードあたり、どうだろうか(いや、ま、どうでもいいのですけど)。
それにつけても、来年開催予定の万博でこのような文化的プログラムがどれほど企画されているのか知らないが、あったとしても代理店任せの幼稚なものであろうと容易に想像がつくところである。いや、むしろ70年万博でいい歳の大人がああだこうだと真剣にタイムカプセルに何を収めるか議論したであろうこと自体、今どきの若い方の目からみると青臭い、というかバカじゃねーの?ということかも知れないが、70年万博をリアルタイムで経験した還暦過ぎのジジイとしては、どうやったって来年の万博については目を覆うような惨状しか思い浮かばないのである。還暦を超えてのうのうと生き続ける、というのはこういうものなのですね、ようやく分かってきました。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2024-03-18 18:03 | その他 | Comments(0)

「卒塔婆小町」「赤い陣羽織」二本立て

映画「哀れなるものたち」の娼館のマダム役、どこかで観たような・・・と思ったらジョエル・コーエンの「マクベス」で魔女役やってたキャサリン・ハンターでした。なんなんでしょうねこのエグすぎる存在感と禍々しさ。日本の女優で言うたら白石加代子みたいな感じ。





日本の短編オペラのダブルビルを観てきた。

 2024年2月11日@兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール
 石桁真礼生「卒塔婆小町」
  詩人:伊藤正
  老婆:福原寿美枝
  小町:東野亜弥子
  巡査:東平聞
  合唱:堺シティオペラ記念合唱団Female

 大栗裕「赤い陣羽織」
  おやじ:松本薫平
  おかか:大岡美佐
  代官:松原友
  奥方:溝越美詩
  庄屋:片桐直樹(演技)・池田真己(歌唱)
  子分:孫勇太

 管弦楽:ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
 指揮・牧村邦彦
 演出:茂山千三郎


石桁真礼生の「卒塔婆小町」、名前はよく聞くが実演に接するのは初めて。1957年の作曲ということで、十二音技法を用いながらも中ほどの鹿鳴館の場面では明確な調性があり、60年代前衛の時代の少し前の、試行錯誤の時代の雰囲気がよく分かる。こういう音楽こそ生で聴く価値があると思うのだが、その後の数々の前衛作品を聴いた耳で今聞くと驚くほど素直に耳に入ってくる感じがした。この「引っ掛かりの無さ」は強味でもあり弱みでもあるが、私は何度も繰り返し聴きたいとは思わないけれど一度は聴いておくべき作品だろうと思う。
歌手の中では詩人の伊藤正が良く伸びる声で、(字幕があるとはいえ)日本語の発音も聞きやすく大変よかった。他の歌手も不満なし。今回の公演は老婆とその若かりし頃を二人の歌手が歌い分けたが、前日公演は一人二役で演じたようだ。
演出はこれといって突出したものはないが、軍服姿の詩人、昭和の終わりごろのような服装の公園のアベック達、いかにも鹿鳴館風のいでたちの女とタキシードの男達、なにかしら考えるところがあるのかも知れないが演劇に疎い私にはよく分からない世界。三島の原作についてだが、私は以前どこかで「近代能楽集」の中の「熊野」や「邯鄲」について書いたような気がするが、「卒塔婆小町」は今以てよく分からない作品。詩人が小町に向かって「美しい」と言葉にした瞬間死んでしまう、というのはいかにも三島の好みそうなシニカルな設定だが、それで?と聞かれると言葉に詰まる感じ。私は「近代能楽集」は作者があちこちであれこれ言うほどには深刻な感じはなくて、むしろ諧謔の一筆書きという印象が強い。それはともかく、さすがに台詞の端々に時代を、というか古臭さを感じてしまった。尤も会場で配っていたパンフレットのあらすじに「アベック(若い男女のカップル)」とわざわざ括弧書きで注釈を付けたりしているのを見ると「昭和は遠くなりにけり」である笑。

大栗裕の「赤い陣羽織」は予備知識なし大して期待もせず観たのだが本当に楽しい舞台で思わぬ儲け物。音楽だけ取り出せばどうということもない気もするが、達者な歌手達の演技に大笑いしていたらあっという間に終わった。どうということもない、と書いたが、音楽と芝居がお互いを邪魔せず引き立て合いながら喜劇(ある意味悲劇の数倍難しいかろうと思う)として成り立っているのは大変なことに違いない。おやじとその女房、お代官とその奥方、お代官の子分、いずれも歌、演技とも言うこと無し。とくにおやじ役の松本薫平は台詞も膨大で大変な役どころだと思うが満点あげたいくらい素晴らしかった。ちなみに庄屋役の片桐直樹は急性声帯炎のため急遽舞台袖で池田真己が歌い、口パクで演技のみとなったが脇役なのであまり鑑賞の障りにはならずに済んだ。
舞台は能舞台を模したセットで、狂言の所作装束で演じられるが、茂山千三郎(被り物で馬の役で出演)の演出は大変すぐれたもの。木下順二の原作はアラルコンの「三角帽子」の翻案と知らなくてちょっと驚いたが、今回の舞台は日本発のコメディとして世界に誇れる水準に達していたのではないかと思う。芸文の中ホールながらまずまずの客の入り。このホールの集客力にはいつも驚かされるが、さすがに客層はかなり年齢高め。まぁ若い人の興味は惹かんわなーと少々寂しい気持ちである。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2024-02-15 16:22 | 演奏会レビュー | Comments(0)

映画「哀れなるものたち」を観る

前回の投稿の映画「リアリティ」に出てくるFBI捜査官の二人観てて、もう若い子は知らんだろうけど10年くらい前に流行ったPSIって言葉思い出した(パンツにシャツをイン=ダサいオヤジのこと)。多分仕事離れたらいい人っぽい。こんなんに尋問されたらそりゃ25歳の女の子なんかひとたまりもないと思う。





ヨルゴス・ランティモス監督の映画「哀れなるものたち(原題Poor Things)」を観た。賛否両論あるとは思うが、私は何十年に一度の快作(怪作)だと思った。
19世紀ビクトリア朝時代と思しきロンドン、天才外科医ゴドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)は、川に身投げした美しい女性(エマ・ストーン)の遺体に、彼女が身籠っていた胎児の脳を移植し、蘇生させベラと名付ける。大人の身体と幼児の脳を持つベラは、やがて好色な弁護士ダンカン(マーク・ラファロ)に「外の世界」へと連れ出され、ありとあらゆる「性と知」の冒険をする。
ネタバレしないようにこの程度にしておくが、物語は驚愕の展開、これで大団円かな、と思ってからの展開も凄まじい。しかもこの映画、基本的にコメディーなのである(観終わった時の後味も極めて良い)。よく分からないがディズニー配給なのにR18指定というのも前代未聞ではないか。もっともR18指定はちょっとやり過ぎ、という感じも。具体的にはベラが解剖用の遺体をおもちゃにして損壊する場面、性に目覚めたベラの自慰シーンや、ダンカンとのベッドシーン、パリの娼館で風変わりな嗜好の客達や娼婦仲間とのこれでもかというくらい描かれる性的冒険、まぁ確かにエロもグロもテンコ盛りだし、娼館で客の萎びた男性器が見える程度は修正もしていないのだが、今どきのお子たちには大した刺激でもなかろう、とは思う。
それはさておき、アラスター・グレイの原作小説は未読につき何とも言えないが、誰もが気付くのはメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」を下敷きにしていること。あるいは女性を主人公としたビルドゥングスロマンという意味でバーナード・ショーの「ピグマリオン」やマルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」を連想する。ネットであれこれ感想などを見ていると、その他にもジョン・クレランドの「ファニー・ヒル」やらヴァージニア・ウルフの「オーランド」の影響を云々されている方がいるなど、お話そのものから画面のディティールに至るまで深読みの誘惑を禁じ得ないのも魅力ではある。私はといえば、この目眩くばかりの精神の成長譚(文字通りタブー無き乳幼児の状態から、自我に目覚め社会の変革を志すことになる)に最も似つかわしいのはヘーゲルの「精神現象学」かも知れない、と思った。
破天荒な物語だけでなく、美術がこれまた素晴らしい。ゴドウィンの屋敷の中では概ねモノクロ、外の世界を知ってからはカラーになるのだが、リスボン、アレキサンドリア、パリと舞台が移るにつれて、幼児が描いた絵のような世界からリアルな世界へと変化していく。それはフェリーニがチネチッタ撮影所に作り上げた夢の世界にも似て、他のどこにもない、映像でしか表現し得ない世界である。私は以前「聖なる鹿殺し」を観て、監督のヨルゴス・ランティモスに興味をもち、DVDを取り寄せて「籠の中の乙女」と「ロブスター」を観たが、何かといえばポリコレだの費用対効果だのという世知辛い世の中で、これだけ好き勝手やりたい放題に撮れる人も珍しいと思う。そのランティモスにしても、今回の作品は満を持して、と思われるほどのぶっ飛んだ出来栄えである。本ブログは一応音楽ブログなので音楽についても一言。ジャースキン・フェンドリックスの音楽はクセが強すぎというか、どこか微妙に頭のネジが外れそうな、チューニングのオカシイ代物。ベラの社交界デビューの場面の奇天烈なワルツはしばらくうなされること必至。シュニトケの映画音楽っぽくもあり、エログロとミニマルの取り合わせはピーター・グリーナウェイの映画のマイケル・ナイマンを思い出させたりもする。ええ、好きですよこういうの。大好きです笑。
私が観た大阪の梅田TOHOシネマはR18にも関わらず満席、しかも女性客が多かった。もちろんあの「ラ・ラ・ランド」のエマ・ストーン目当て、というのもあると思うが、どこかで(意識的か否かはともかく)真のフェミニズム映画を求めてこの映画に辿り着いた、という側面はあると思う。ベラが外の世界に飛び出すのも、パリの娼館で娼婦に身をやつすのも、大団円と思わせて更なる地獄の一歩手前まで突き進むのも全て彼女の「自由意志」に基づくものである。とはいえ、先に挙げた籠の中の乙女以下の諸作品から推し量るに、監督はフェミニズム映画を撮ったつもりは毛頭なくて、単なるエログロ好きの変態オヤジ、という可能性もなくはない笑。まぁ実際どうなのかは観る人次第。私はお勧めします(但しご家族と一緒の鑑賞は避けた方が良いです)。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2024-02-06 11:45 | その他 | Comments(0)

映画「リアリティ」を観る

昨今、裏金疑惑だの裏金工作だの、ネットでも新聞でもよく見るけど、いちいち脳内で「裏キン、じゃなくて裏ガネ」と読み直す癖なんとかしたい。





映画「リアリティ」(ティナ・サッター監督)を観た(塚口サンサン劇場)。
2016年アメリカ大統領選における、いわゆるロシア疑惑に関連して、アメリカ国家安全保障局(NSA)の契約社員リアリティ・ウィナーが機密情報を漏洩した廉で逮捕された(ちなみにリアリティというのは実名)。この映画は2017年6月に家宅捜査が行われ彼女が逮捕された際の、FBI捜査官との会話(後の裁判で公開された音声記録)を(ほぼリアルタイムで)忠実に再現したものという触れ込み。ドキュメンタリーというのとは少し違うが、台詞が全て現実に起こったこと、というのは(演劇ではいくつかあるのかも知れないが)映画では珍しい試みだろうと思う。
結局ロシア疑惑とは何だったのか、トランプ大統領誕生の裏で本当に不正があったのか、等々については何も語られない。彼女がリークした文書の内容にもほとんど触れられていないし、映画の台詞でリークの核心に触れる部分は音声が飛んだり、映像の中でも黒くマスキングされている。
結局のところ、彼女が機密を漏洩したというのは疑いのないところであるし、始めの内いくつか小さな嘘をついていた彼女は、FBIの追求に耐えきれず完落ち。この映画の拠って立つところが反トランプないし半共和党かどうかも純粋に作品からだけの情報ではやはり何も分からない(プロモーション側の立場として反トランプ、もっと言えば反権力の立場へ誘導しようとしているのは何となく分かるけれども)。
リアリティ自身は、兵役に就いた後、ペルシャ語やパシュトー語の能力を買われてNSAの契約社員となり、機密情報にもアクセスできる立場であったが、リークの動機はある種の漠然とした正義感に基づくもので、それ以上でもそれ以下でもないと思われる。逆にその動機が狂信的なものでもなければ組織的なものでもない、というのがリアルではある。彼女はFBIの家宅捜査を為すすべなく見守りながらも、ペットの犬と猫を気遣い、ヨガ教室のことが気掛かりで、一人暮らしの部屋にはキティちゃんやピカチューグッズがあったりする、つまり経歴を除けばごく普通の25歳の女性。家には大小合わせて3挺の銃があるが、郊外の女性一人暮らしの一軒家では別に珍しい程でもないのだろう。部屋にコーランが置いてあり捜査官も一瞬色めき立つが、中東諸語に興味のある少し変わった子、というのが実際のところだろう。FBIの尋問は極めてフレンドリーかつ紳士的だが、ふとしたはずみに不穏な物言いを隠そうとしないのは真綿で首を絞められるような怖さがある。次第に分かることだが、彼らは「事実」はほぼ全て把握していてリアリティの吐く嘘も全てお見通し、ただリークに及んだ理由を知りたいだけなので、もとから彼女に勝ち目はないのである。捜査官とは別に、ずっとガムを噛んでいるもっさりした大男、どういう役回りなのかと思っていたら、戸口が開いていて飼い猫が逃げやしないかと恐れたリアリティが咄嗟に走り出すと、もの凄い敏捷さで彼女を追いかける。多分下手に逃げたら足を撃ち抜くぐらいはするのだろう。
この映画の狙いはつまるところ徹底的にリアルな台詞で息の詰まるような尋問を再現することに集約されている(監督のティナ・サッターは元々舞台の人で、ネットでインタビューを観たが元々事件に興味はなく、どちらかといえばノンポリ、あくまでも演劇的興味が根底にあるように見受けられた)。リアリティ役のシドニー・スウィーニーの演技は見事。別に泣き喚いたりは一切ないのに、追いつめられた小動物のような表情が胸に刺さる。日本に住んでいると実態が殆ど分からないFBIだが、日曜日のお父さんみたいな恰好のオジサン集団が、家宅捜索が始まるや否や捜査のプロ集団に豹変するのも見ものである。上映時間は正味90分もないぐらい(つまりその程度の時間でFBIは彼女を完落ちさせたことになる)だが、観終わるとどっと疲れが残り、えらいもんを観てしまった、と思った。
現代アメリカの政治の裏側に興味がある方には少し肩透かしかもしれないが、日常生活に突如ぽっかりと空いた陥穽に落ちた人間がどういった反応をするのか、演劇的興味をそそられる方がもしいたら強くお勧めしたい。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2024-01-23 15:08 | その他 | Comments(0)

日本センチュリー交響楽団定期演奏会(ショスタコーヴィチ&ブルックナー)

猫が死んでもう3年、その間夢に出てきたのは一回だけ。それも引っ越し荷物を積み上げた隙間にいて、「あーこんなとこにいたんでちゅかー」と抱っこした瞬間に目が覚めた。正月くらい戻ってきたらいいのに。





日本センチュリー交響楽団第278回定期演奏会
1月12日@ザ・シンフォニーホール

 ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調Op.77
 ブルックナー 交響曲第3番ニ短調「ワーグナー」(1873年ノヴァーク版第1稿)
 指揮:飯森範親
 ヴァイオリン:三浦文彰
 管弦楽:日本センチュリー交響楽団

久しぶりに取引先の社長からのお誘いでシンフォニーホールへ。何の予備知識もなく当日のプログラムを聴いたのだが、ショスタコのソリストには感服。見かけは金髪のチャラい兄ちゃんだが、16歳の時に2009年のハノーファー国際コンクールで優勝したとのこと、このコンチェルトはなかなかの難物だと思うが素晴らしい演奏だったと思う。緩急緩急の4楽章構成、時間的にもかなり長尺の部類だが少しも弛緩することなく一気呵成に弾き切ったという印象。終楽章のブルレスケが終わると少しフライング気味に盛大な拍手が起こったがこれは納得。実はこの作品、そんなに聴き込んだことはないのだが、1948年のジダーノフ批判を受けてお蔵入り、53年のスターリンの死後ようやく初演されたという曰く付きの作品で、社会主義リアリズム路線とは対極的な曲想はある意味ショスタコーヴィチの面目躍如という感じも。ショスタコも長らく聴いていないが久しぶりにあれこれCDを取り出して聴いてみようと思った。
後半はブルックナーの3番、それも1873年第一稿による演奏。私はこのブログで何度か書いてきた通り、どちらかと言えば苦手な作曲家で、版の問題などもあまり分からないのだが、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」からのあからさまな引用を含むこの第一稿を大変面白く聴いた。昔多少は聴き込んだことのある改訂版と比べると、特に終楽章のくどい程のゲネラルパウゼなど冗長と言えなくもないが、多少完成度に難があるとしてもブルックナーがやりたい事を全部やった感じがするのはとても好ましい。良くも悪くもブルックナーの本質が現れているように思った(とは言え、ワーグナーが喜んで献呈を受けた、というのが、やっぱりよく分からない)。
両曲ともそんなにあれこれ聴いたことがないので、演奏の巧拙を云々する資格はないのだが、仕事帰りのコンサートで一瞬たりとも眠気を感じなかっただけでも大したもの(笑)。ブルックナーは幾分早めのテンポでくどい割には胃もたれしない演奏だったと思うが、それが版のせいなのか指揮者のせいなのかは分からない、でも満足しました。
因みにお誘いいただいた社長さん、体調がお悪いみたいで当日ドタキャン、かわりに部下の若いのが来たので、「こんなんお好きなんですか」と尋ねると、クラシックには何の興味もないし当日の朝社長に行け、と言われてよく分からんまま来ました、とのこと。よりによってこのプログラムというのはお気の毒としか言いようがない。「ちょっとした拷問かも知れませんよ」と予め申し上げたのだが、終わってみると案外面白かったらしい(本心かどうか知らんけど)。でも何より印象的だったのは男子トイレのジジイの大行列だったそうな笑。ま、そりゃそうなりますわな。
なお、開演に先立ってセンチュリー・ユースオーケストラのメンバーによるプレコンサートがホワイエで開かれた。リゲティの木管五重奏のための6つのバガテル。マジャール色の濃い初期作品だが、若い音楽家が果敢にこのような曲目に取り組むのは心強い限り。演奏もとても良かった。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2024-01-16 15:40 | 演奏会レビュー | Comments(0)